憧れと呪い

 憧れ…、それは誰しもが一度は経験したことのあるであろう感情だと思う。尊敬する人のように自分もなりたいと願う心、初恋のような、誰かを慕い、結ばれたいと思うのもまた、憧れの一部だろう。
 僕は自分が女の人に好かれたことはあっても、自分が好きな人に好かれた事はほとんどない。また、自分が出来ること、例えば英語、ピアノボーカルやイラストなど人が羨むような技術は何の努力も無しに得られるのに、自分が本当に得意になりたいもの、バストロンボーンや数学などは、本当にいつも努力に裏切られてきた。前者は音大入学程度までは仕上げられたものの、後者は常に僕の人生の選択肢を狭めてくるほど出来が悪い。
 僕は人が良すぎるせいで、いつも他人に利用される。さらになまじっか能力もあるせいで、まとめ役や面倒な仕事をいつも押し付けられ、その度に気乗りしない大量の課題を前に気分を病んでしまうなど、自分がさして不運でもないのにこの世で最も不幸な存在だと勘違いしてしまいがちな面もある。そりゃ自分から好意を持たれた人が逃げていく訳だ。友達からも、“顔は良いのに何で彼女がいないんだか”と言われる理由は、自分の自信のなさに起因するところが大きい。
 僕は常に、努力していない人が幸せになるべきではない、と思ってしまう。だから街なかで不摂生な身体つきの男がかわいい女の人を連れているのを見ると、どうしても不潔で世の中がおかしいのではないかと感じでしまう。僕は昔は太っていて、とてもそれがコンプレックスだった。両親の背が小さかったので身長を伸ばすために沢山飯を食べさせてもらっていたが、自身の体型を他人と比較するたび、惨めな気持ちになっていた。それだから太っていたり、生理的に受け付けない見た目をしている人が幸せそうな顔をしているのを見ると、何だか無性に腹立たしい気持ちに襲われるのだ。こいつらは何て運が良いんだ、と。
別に彼らが彼ら自身ののことを好きになるのも嫌いになるのも、当人の自由意志である。他人である僕が彼らの価値を推し量り、断定することは野暮な行為だと言い切っていい。しかし感じてしまったものを否定することは、何もかも満たされていない今の自分にとってはひどく難しい事なのである。貴様らのようなのが幸せになるなんて、努力して小綺麗になっても誰にも出会えない自分があまりにも情けないではないかと、強い怒りにも似た何とも言えない感情にさいなまれる。
 幸せとは一体なんだろうか。僕は今の僕のままでは、一生幸福というものの価値を感じられ無いとおもう。自分が自分のままでいい、そう思えれば、必要以上に己を責め続けなくて済むのだろう。しかし、自分という生き物の未熟さや情けなさ、野暮ったさに一度でも気づいてしまえば、いくら矯正しようとも自己の存在価値を以前より感じられなくなってしまう。それは、自分というものに対しての失望に近いのだから。世界を見て、感じるもの、その主体は間違えなく今文字を打っている僕自身だろう。ゲームで言うところのCPUが僕という人間で、それを操っているのが僕の意識といったところだろう。しかしCPUがあまりにも不便だと、プレイヤーである意識の側が、僕という人間に対して見切りをつけてしまう。こいつは使えないんだ、これが限界なんだと。そうなってしまえば、自我の支えでもある自信が、本当に揺らいできてしまう。もしかしたら自分は他人よりも劣っているのではないかという恐ろしい観念が、僕の心の中を幽霊のように満たしてくる。それと反比例して、人生に対する満足感は瞬時に心から失われる。
 気づいてしまえばもう最後、希望もやる気も無くした腑抜け人間の完成だ。対象への憧れが嫉妬や怒りに変わり、最後は自信を失って、希望を感じられなくなる。これが僕の人生だったとしたら、なんて皮肉な運命だろう。
 青年期の成功体験は、必ず後の人生に影響を及ぼす。しかし僕は残酷にも他人からは成功しているように見えていたとしても、そもそも僕自身は自分の事が情けなくて大嫌いであり、望むことは何一つ叶っていない。この先僕はどんな大人になるのだろう。このまま落ちぶれて、破滅の一途をたどるのか、でも、それもまた決められた運命なのだろうか。きっと、未来は思った通りに進むのだろう。